学習目標
- 広義の人類学を定義する
- 人類学の指針となる物語を要約する
- 人類学の中心的なコミットメントを説明することができる
人類学は広大な研究分野です。広大というか、実際、人類学はあらゆるものに関心を寄せているのです。人類学は、その大きな広がりと、関心の的が独特であるという点で、唯一無二の分野です。他の学問分野を考えてみましょう。芸術や科学の分野では、それぞれの学問が社会生活や物理現象といった個別の分野に焦点を合わせています。経済学者は経済を、宗教学者は宗教を、環境科学者は環境を、生物学者は生物を研究する、といった具合です。
人類学者はこれらすべてを研究しています。簡単に言えば、人類学とは、時間と空間を横断した「人間性」の研究です。人類学者は、人間の経験、思考、活動、組織のありとあらゆる領域を研究しています。人間である以上、私たちは人間の心と身体を通してのみ、社会と自然の世界に関わることができます。天文学や植物学のような非人間的な領域への関与でさえ、人間の感覚と認識による制約を受けます。そしてそれゆえに、そうしたものは社会や時代によってさまざまになるのです。
人類学があらゆるものの人間的側面であるならば、政治学や宗教学、経済学など他の社会学も人類学に含まれるのだろうか、と思われるかもしれませんが、そうではありません。確かに人類学者は学際的な研究を行っています。つまり、研究や教育は人類学という学問分野に焦点を当てつつ、他の分野とも関わり、他の分野の研究者や教師とも協力しています。しかし、他の社会的学問分野の研究者がその対象にアプローチする方法は、人類学者が同じ対象にアプローチする方法とは異なるのです。
人類学の特徴的なアプローチは、人類についての中心的な物語(ストーリー)と、一連の学問的なコミットメントに依存しています。この中心的な物語と共通のコミットメントが学問に一貫性をもたせ、人類学者が多様な分野からの洞察を組み合わせて、人間であることの意味について一つの複雑な肖像画を描くことを可能にしているのです。
人類学はあらゆるものを扱います。しかしそれは、なんでもいいということではありません。人類学は、特有の物語と一連のコミットメントに導かれた人類の研究なのです。
人類学の核心:中心的な物語とコミットメント
人類学者は偉大なストーリーテラーです。彼らは、人間の生活のあらゆる側面について、たくさんの物語を語ります。これらすべての物語の中心には、一つの基本的な物語があります。それは「人類の物語」という豊かで複雑な物語です。物語は、一連のつながった特徴や出来事を描写します。物語には、フィクションもあればノンフィクションもあります。人類学の物語は、人類の起源と発展、そして現代の生活様式に関する、事実に基づいた物語です。
人類学の中心的な物語は、このように要約することができます。
人間は、生物学的・社会学的に柔軟な特徴を持ち、それがさまざまな環境・歴史的条件のもとで協調して、多様な文化を生み出してきた。
この物語の3つの特徴は、人類学者にとって特に重要です。こうした特徴は、人類学の3つの中心的なコミットメントを形成しています。学術的な研究において、コミットメントとは、ある学問分野の研究者が認識する共通の目標のことです。
中心的なコミットメント #1:社会文化的な多様性の探求
物語が示すように、人間は多様な条件のもとで、多様な文化を生み出しています。人類学者は、どの生き方がより優れているか、道徳的に優れているか、より効率的か、より幸福か、といった判断を下すのではなく、人間の生き方の多様性を記述し理解することに力を注いでいます。こうした判断はともかくとして、人間はどこの国でも自分たちのニーズを満たすために文化を創造していることがわかります。人類学者は、人間の生存、社会的統合、意味の探求という課題に対して、異なる文化がどのように異なる解決策を考案しているかを発見しています。
今日はどんな服装ですか?Tシャツとジーンズにスニーカー、あるいはチュニックとレギンスにビーチサンダルなどでしょうか。
教授はどうでしょう?バスローブにスリッパ、それともカクテルドレスにハイヒール?そんなことはあり得ないと(ほぼ)確信できます。でも、なぜでしょう?アメリカ人が授業で着ているものは完全に普通だと思い込んでいるかもしれませんが、この思い込みは、何をもって「普通」とするかという問題を無視しています。
例えば、多くの国では、大学生はドレスシャツを着て、スラックスやスカートを履いて授業を受けるのが一般的です。それに対し、ガーナの学生の多くは、破れたジーンズやタイトなレギンスを履いて授業に参加することを夢見ません。そのようなカジュアルな服装は無礼であると考えるからです。アメリカの学生たちは、プレゼンテーションよりも快適さを重視しており、これはアメリカの服装の全体的な傾向でもあります。オフィスでも、金曜日はカジュアルな服装で過ごすのが当たり前になっています。西アフリカのガーナでは、「カジュアルフライデー」は定着しませんでしたが、会社員は自分たち独自の金曜日のドレスコードを確立しています。ガーナの繊維産業が中国からの輸入品に脅かされるようになり、ガーナの会社員は金曜日に地元で生産された生地で縫った服を着るようになり、”National Friday Wear “の習慣が生まれました。
では、アメリカ式とガーナ式、どちらが優れているのでしょうか?人類学者は、どちらの方法が優れているということはなく、それぞれが特定の文化におけるニーズに対応していることを理解しています。カジュアルフライデーは快適なレジャーウェアを求めるアメリカ人にとって最適で、ナショナルフライデーウェアは地元経済を活性化させ、文化的誇りを示したいガーナ人にとって最適なのです。
人類学者は、異なる文化間の多様性だけでなく、文化の中での多様な経験や視点も認識しています。あなたは古着屋で古着を買うことがありますか、あるいはそういう人を知っていますか?古着屋で買った古い緑の男性用トレンチコートは、大学生が好きかもしれません。しかし、その生徒の母親は同じように感じず、自分の子供に新しいコートを買ってあげると言い、コートの持ち主を困らせるかもしれません。1930年代から1940年代に育った人々にとって、古着は世界恐慌の厳しい時代を連想させるものでした。しかし、新しい世代にとっては、古着は主流のスタイルの枠を超えた、ユニークで手頃な価格の服を見つける方法なのです。ある文化圏の人々は一般的なルールを共有していますが、社会的な役割や経験によってその解釈を変え、時にはそのルールを拡張し、最終的に時間と共に変化させていきます。
ガーナでは、古着の多くはアメリカやヨーロッパから大きな梱で輸入され、それを地元の業者が買い取り、市場の屋台で売っています。アメリカやヨーロッパから来た人のことを現地では「obruni」と呼びます。古着は「obruni wawu」、つまり「外国人が死んだ」と呼ばれますが、これは生きている人間がそんな着古した服を手放すはずがないとの考えからです。多くのガーナ人は、市場に山積みされたobruni wawuを拾い集め、誰もが知っているブランドや珍しいスタイルの服を見つけるのが好きです。しかし、obruni wawuを貧困と結びつけて考える人もいます。obruni wawuを売る屋台はしばしば「bend-over boutique(bend-overは身をかがむ、boutiqueはブティック、洋装店の意)」と呼ばれますが、これは地面に積まれた衣類を物色する客が従順な姿勢をしていることに由来しています。 obruni wawuは、ある場面には適しているが、ある場面には適していません。あるガーナの映画で、男が年下の女性に言い寄るシーンがありました。その男がその恋人になるかもしれない女性に、袋いっぱいのobruni wawuをプレゼントしたところ、観客は大爆笑。このプレゼントは不適切で滑稽だと捉えられたのです。
衣服と同様に、住まいや食べ物、家族構成、仕事の組織化、人生の意味の発見といった共通の課題に対して、文化が異なれば異なる解決策を導き出すことができます。そして、どの社会でも人々は自分たちの文化的規範について議論しています。人類学は、人類共通の課題に対する多様な解決策と、それぞれの文化における対立する視点の多様性を記録し、理解しようとするものなのです。
中心的なコミットメント #2: 社会のしくみの理解
私たちの身体の様々な部分(脳、心臓、肝臓、骨格など)がすべて連動しているように、社会の様々な部分(経済、政治システム、宗教、家族など)もすべて連動しています。人類学者は、社会のある領域の変化が、別の領域の変化と予想外の形で関連していることをしばしば発見します。植民地時代にガーナの農家が輸出用のカカオを栽培し始めると、男性が換金作物を独占し、女性は家族の消費と地元での取引のための野菜栽培に追いやられ、この農業シフトはジェンダー関係を劇的に変化させました。カカオの取引で男性が利益を得るにつれ、男女間の関係はより不平等になっていったのです。
人類学者は、人間の生活のあらゆる要素が相互に関連して独特の文化を形成していることを、「ホーリズム(全体性)」という言葉で表現しています。そのような要素は、あるときは互いに補強し合って安定を促し、あるときは互いに矛盾し合って変化を促します。例えば、インドのカースト制度です。文化人類学者のSusan Baylyは、インドのカーストに関連する信念と実践が、いかに文化の統合と安定をもたらす一方で、地域的な多様性を大きく示し、社会変革の力として働いてきたかを説明しています(1999)。ほとんどのインド人は、出生によって割り当てられる2つの所属形態、ジャーティ(出生集団)とヴァルナ(順位、階級、種類)についてよく知っています。インドのさまざまな地域には何千もの出生集団があり、その多くは一つの地域に特有です。これに対して、インド全土で知られている4つのヴァルナがあります。 ブラフミン(バラモン、司祭)、クシャトリヤ(支配者や戦士)、ヴァイシャ(商人)、シュードラ(奴隷労働者)です。また、「不可触民」あるいは「ダリット」と呼ばれるグループは、ヴァルナから外れた存在です。
ヴェーダに書かれているように、4つのヴァルナは、人間の解剖学を思わせる相互依存的な階層構造で並べられています。『リグ・ヴェーダ』には、神々が最初の人間プルシャを犠牲にして、その身体を分割し、4つのグループの人間を作り出したことが書かれています。
一一 かれら(神々)が原人を〔宇宙的な祭祀における犠牲獣として〕切り刻んだときに、いくつの部分に分割したのであるか?かれの口はなにになったのか?かれの両腕はなにになったのであるか?かれの両腿、かれの両足はなんと名づけられたのであるか?
一二 かれの口は、バラモン(brāhmaṇa)であった。かれの両腕は、王族(rājanya)とされた。かれの両腿は、庶民(vaiśya)とされた。かれの両足からは隷民(śūdra)が生まれた。
中村元『ヴェーダの思想 決定版(中村元選集 第8巻)』春秋社,1989, p421
古代の文献では、カーストは社会秩序の手段であり、各カーストの人々はそれぞれ異なる機能と職業を持ち、調和を保ちながら働いていると考えられています。しかし、このような文章は上位カーストのメンバー、多くはブラフミンの学者によって書き留められたものであることに注意してください。
カーストの慣習を研究する人類学者や歴史家は、カースト制度は決して一元的で支配的なものではなく、むしろ柔軟で地域的、かつ絶えず変化するアイデンティティの集合体であったと主張しています。植民地時代には、イギリスがカースト制度をより厳格で対立的なものにし、選ばれたカースト集団に教育や仕事を提供しました。20世紀には、多くの低カースト集団が、キリスト教やイスラム教に改宗したり、政党を結成して政府に社会進出の機会を増やすよう圧力をかけたりして、その抑圧に抵抗していました。
人類学者は、異なる文化がどのように異なる人々のカテゴリーを作り、そのカテゴリーを使って社会生活の活動を組織しているのかに興味をもっています。例えば、多くの農耕社会では、男性はある種の農作業をし、女性は他の仕事をします。作物を植えるために土地を切り開く必要がある社会では、多くの場合、男性が木を切り、草を刈り、女性が作付けをします。大規模な工業的農業を利用する社会では、移民や特定の民族や人種に属する人々が、作物の栽培や収穫に必要な肉体労働を行うために、しばしば採用(あるいは強制)されます。産業資本主義社会では、ある集団が工場を所有し、別の集団が工業製品を生産するための機械を働かせます。
集団間の関係は、協力的、競争的、あるいは闘争的です。ある文化は社会集団の平等を促進し、他の多くの文化は集団間の不平等を強化します。ホーリズムはハーモニーと同じではありません。人類学者は、社会がどのようにまとまっているか、また、対立や変化、崩壊を引き起こす可能性のある条件にも関心を持っています。
アメリカ社会の中で、2つの異なるグループが、その価値観、意見、欲望において、どんどん離れていっているという感覚を表すために、「二極化」という言葉が使われるのを聞いたことがあるかと思います。この2つのグループの矛盾した視点が、アメリカ社会を引き裂く恐れがあると指摘する人もいます。また、アメリカ人は自由、機会均等、民主主義といったより深い価値観で結ばれているという指摘もある。人類学者は、この問題を理解するためにホーリズムを使って、各グループの視点がそのグループの経済的経験、政治的信念、宗教的・道徳的価値とどのように関係しているかを考えるかもしれません。包括的なホーリズムは、社会のこうした側面をすべて調査し、それらがどのように作用して今日の二極化を生み出しているかを調べ、2つのグループを生産的な対話に導くために何ができるかを提案します。
中心的なコミットメント #3: 人と自然の相互依存関係を検証する
私たちの物語が示すように、人類学者は、自然環境や、人間が長い時間をかけて自然界とどのように関わってきたか、そしてその関係がどのように様々な文化を形成してきたかに関心を寄せています。人類学者は、異なる文化の人々が、土地、水、植物、動物、気候、空間など、自然の様々な要素をどのように理解し、利用しているかを考察します。そして、人々がこれらの自然の要素といかに複雑な形で相互作用しているかを明らかにします。
世界中の先史時代の遺跡を調査している考古学者たちは、先史時代の人々が天体をどのように理解し、水路の航行、暦や時計の作成、農作業の調整、宗教儀式の予定、政治指導者への情報提供などに利用していたかを記録しています。このような研究は、天文考古学と呼ばれています。アメリカ南西部のチャコ・キャニオンでは、夏至や春分など1年のうちの重要な時期に、太陽や月を見るのに最適な窓があるように、主要な居住地域の建物が配置されていることが判明しました。ファハダ・ビュートにある2つの渦巻き状のペトログリフ(岩面彫刻)からなるThe Sun Dagger(直訳で「太陽の短剣」)は、岩の裂け目の下に正確に配置されており、裂け目から太陽が射し込むと夏至と秋分の日が示されるようになっています。しかし、観光客の往来により、岩の裂け目の幅や向きが変わってしまい、The Sun Daggerは、この天体イベントを正確に示すことができなくなってしまいました。
チャコ・キャニオンの人々は、高地砂漠という厳しい環境の中で複雑な文明を築きながら、自分たちの環境の特徴を特によく理解していたと思われます。降雨量が少なく、生育期間が短いため、彼らの生存は植え付けと収穫のタイミングを正確に見極めることにかかっていました。50年にわたる干ばつが始まると、農作業はますます不安定になりました。やがて、チャコの古代人はこの地を離れることを余儀なくされました。
人類学者の中には、人々がその地域の植物とどのように関わっているかを研究している人もいます。民族植物学の分野では、異なる文化圏の人々が植物をどのように分類し、食料、住居、道具、交通手段、芸術、宗教などに利用しているかを調査しています。 また、文化的習慣と植物の薬効との関係を明らかにするために、癒しに使われる植物の研究も行っています。また、キノコやペヨーテのような精神作用のある植物を宗教的儀式に用いる文化的慣習を研究する者もいます。例えば、人類学者のJamon Halvakszは、ニューギニアの若者の間で論争になっているマリファナの使用について研究しました(2006)。若者たちはHalvakszに、マリファナは仕事に励み、恥を克服し、祖先の物語を理解するのに役立つと語りました。しかし、この習慣を批判する人々は、マリファナは使用した人の血液を乾燥させ、その子孫を弱らせる、と語りました。米国を含む他の国でも、マリファナの使用は同様の論争を巻き起こしています。マリファナはリラックスや痛みを和らげるという意見がある一方で、認知能力や意欲を妨げるという意見もあります。
私たちと自然との関係は相互的なものです。自然が人類を形作り、人類が自然を形づくるのです。人類学者は、自然がどのように人類を形成しているかを探るため、環境の側面が、歩行能力、歯の形、脳の大きさなど、人類の生物学の出現と発展をどのように形成してきたかを推測しています。過去数百万年にわたる劇的な気候変動は、生物学的・文化的に急速な適応を強い、新しいヒトの種や言語・道具製作などの新しい技能の誕生をもたらしました。最近の考古学的な時代では、環境特性が宗教的信念、男女関係、食糧獲得戦略、政治システムを形成してきました。環境の力は、社会の始まりや終焉の引き金になることもあります。火山噴火や干ばつなどの自然現象が、どのように大移動や帝国の崩壊につながったかを研究している考古学者もいます。
自然との相互関係については、逆に人間が自然を形づくっているとも言えます。私たちの環境は、私たちの社会の食糧調達方法や、石油、天然ガス、ダイヤモンド、金などの資源の獲得や取引方法によって形作られています。多くの人類学者は、現代の生活様式が地域、地方、そして地球レベルでどのように自然界を変えているのかを研究しています。農業は、草原、湿地、森林の伐採により、生態系に劇的な影響を与えます。漁業は特定の種を枯渇させ、河川や沿岸水域の生態系全体を変化させる可能性があります。人口の増加に対応するため、人々はダムを建設し、新興の都市に水を供給しています。水の方向転換は地域の生態系を変え、湿地帯を砂漠に、砂漠を資源を多く消費する都市に変えてしまいます。
学者たちは、地球の生態系に対する人間の影響が増大している現代を、「人新世」という言葉で表現しています。大規模な汚染、鉱業、森林伐採、牧場、農業は、気候変動や動植物種の大量絶滅など、劇的な環境破壊を引き起こしています。多くの人類学者はこうした問題を研究し、自然界でより持続可能な生き方を推進するために、人々が地域、地方、そして世界的にどのように活動しているかに注目しています。
コメント